もやっとしているぞ!


文章を書くことのおもしろいところは、自分の感じているものこと、体感して体得したっぽいこと、なんかもう分かってることが、感覚じゃなくロジックでだんだん分かってくるからだ。

文章を組み立てるときわたしがやっているのは、感覚の理屈化だ。

でも激しく論文とか苦手だし、理屈っぽい本は眠くなって読めない。
眠くなるというのは、自分の能力を超えた本を読んだりすると眠くなるらしい。

考えてると眠くなるから、もやっとしたままでもとにかくキーボードに向かってたらたらと書けば、だんだん分かってくるのかも知れない。

本の企画書作りつつ。
‥‥わー、かなり危なげ‥‥。見えてなさげ‥‥。

文章書くのは好きなのに、論理的な思考は苦手っていうのは、一体なんなんだろうな。

というか、いつから論理的な思考をこんなに苦手と思うようになったのか。
昔は得意だと思っていたはず。

Life


旅の記録の最終回がいつまで経ってもエントリーされず、記録中のわたしは風呂に入れないまま、ついに1ヶ月が過ぎましたが。

今日は深夜の会社でまったく関係ないエントリーをだらだらとします。(新聞読むとか掃除するとか机周り整理するとかって、日中はなかなかできないんでやるなら朝早く来るしかないと思っていたけど、今、仕事終わってから一人深夜にやってみたら、なかなか気持ちがよかった。勢いでブログも書いてみる。)

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さて、いつ死んでも心残りのない人生を送ろうというのが、わたしの昔からの心がけです。

いつ死んでも心残りのない「人生」というのは少しおかしい。生きてから死ぬまでを一つの「人生」として捉えると、そこになんか意味とか達成感みたいなものがないと「心残りのない」ものにはなりえないような気がするから。気がするだけで、これは言葉のマジック。

それよりは、いつ死んでも心残りのない「生活」を、というのがしっくりくる。同じようなことなんだけど。

「人生」は大げさ。人生を意識して生きてると、プレッシャーに負けちゃうな。
朝起きて、夜までの長さを思うと暗澹たる気分になるのと同じだな。

それよりも、朝イチでやらなきゃいけないことを考える。今日の居心地良さを大事にする。

「生活」を大事にするというと、今度はきちんとおいしい自炊をするだとか、丁寧に紅茶を入れるだとか、そんなイメージも湧くけど、それもちがう。

たとえばここのところ仕事が忙しくて、ティーバッグのハーブティーを入れる余裕もないほどの精神状態。お茶を入れる時間くらいあるのだけど、焦っているのでそういう気分にならないのです。でも、余裕がないのも含め、そういう生活が今はたのしい。

何が言いたかったかというと、「天気は『今日』の額縁」ということだったのだけど、まったくそこへ行き着けないまま、筆を置きます。

‥‥わたしもう書く人じゃない気がする‥‥。でも書くの好きなの。

言葉はおもちゃ


言葉なんておもちゃなのです。

お金はそれ自体では、スクラッチカードを削る時とMacBookのバッテリーを取り外す時くらいしか使えなくて、モノと交換したり、何かを見たり乗ったりやったりする権利と交換したりするための便宜的なものでしかない。

お金で買える物はだいたい分かりやすい。お金はそれ自体はなんの役にも立たないっていうことだけ分かっていれば、それほど罪深くない。それに、お金は悪人顔をしているので、そんなにだまされない。

それに比べて言葉は、お金と違ってちょっと真実チックなんだよな。善人顔をしている。

でもね、言葉というのは、モノや気持ちやそのほか世界にあるあらゆるものに、便宜的に付けた名前でしかないのです。まったくもって信用ならないあやふやなものなのです。

お金はなにが幾らときちんと数値で決まっている。ところが言葉は、どこからどこまでがなんという言葉なのか、きちんと決まっていない。

「母」、これは自分の産みの親を差したり、銀座の占い師を差したり、大地や海を指すこともある。とらえどころがない。

「愛」、これは母が子どもに抱く感情を差したり、ナウシカと王蟲の間にある絆を差したり、たまにうっかり男の性欲や女のドロドロしたエゴを差すこともある。得体が知れない。

つい弾みで出た言葉が、本当に伝えたかったこととほんのすこしズレていたばっかりに、本当に言いたかったこととはまったく見当違いに伝わってまうということはよくある。

だいたい、慎重に慎重を重ねていいたいことをバッチリ言葉に変換して伝えたぜ!という場合においてさえも、言葉の定義というのは人によって微妙に違うので、バッチリそのまま伝わる可能性は低い。

言葉はただの言葉です。とても信用できるものではないし、扱いのややこしい、いっそないほうがいいかもしれないようなものです。

それなのに、わたしたちのまわりにまつわりつく言葉、言葉、言葉。

だからいっそ、そんな言葉たちがウソでも本当でも、どっちでもいいことにすればいい。ああ、ヘンテコなものが飛び交ってるなと思って、おもしろがってやればいい。おもちゃみたいに使ってやればいい。

そのほうが、核心に近づけるような気がするのです。そのほうが、本当のことを伝えられるような気がするのです。

言葉はおもちゃ。そんくらいがちょうどいい。

誤解とかどーでもいい。


誤解されてもどう読まれてもいいから書きたい。それを公の場でできるのは、小説しかない。ここで垂れ流すのは、どう読まれるかある程度予想して書いたほうがいい。

わたしのうちなるものは、公の場を通さずに、他者のうちなるものと会話できる。それが文学。

日帰りボラツアしてきました。


三連休の中日を使って、日帰りのボランティアツアーに参加しました。

最近、地震直後に書いていたTwitterやFacebookを読み返してみて、あのころいかに寒かったか、寂しかったか、動揺していたかを思い出していました。

会社から帰って一人分のあったかい食事を作り、その食事がおいしいと、どこかの瓦礫に閉じ込められているかもしれない人や、どこかの陸の孤島で救護を待っているかもしれない人を思って泣いていた。「この、あったかくておいしいものを届けてあげたい」という気持ちが、のどの奥から湧いてきた。会社で仕事をしていることが、なんとなく虚しかった。

地面が断続的に揺れるというのはいけませんね。あんなに人の心の平静を壊してしまうものだというのを、地震大国にあって初めて心と体で学びました。

最近やっと落ち着いてきて、引きずられたりもしなくなったので、そろそろ「何かしたい」と思ったのです。できる範囲で。

わたしにとっては、何か・誰かに「何かしたい」という衝動が自分の中に湧いたのも新鮮でおもしろかった。この衝動に素直に動いてみたいと思った。

今回参加したのは、石塚観光このツアーです。根性なしにぴったりの日帰りバスツアー。

後日届いた詳細書類はコチラ。
スケジュール
服装について
道具について

作業地は石巻。作業内容は「側溝」。ドブさらいです。

ドブさらい

石巻の中里というところの町内会のお手伝い。住宅街の側溝のふたを外して、側溝にたまったヘドロをシャベルで掻き出して土嚢袋に詰めていく。ただそのくり返し。

作業は10時から14時半まで。30分に10分ほど休憩が入って、お昼もたっぷり1時間以上。熱射病対策だそうですが、総勢40人以上の我々ツアーボランティアにできたのは、2ブロックくらいだったんじゃないかな。

側溝には、黒くて粘りけがあり油っぽいヘドロが、高さ20センチくらい、生活水でどろどろになって溜まっていました。

このヘドロのせいで、側溝に流れ込んだ水がなかなかハケてくれないらしいです。そのため、こうやって何度も人の手で掻き出すのだと。

ところが、いくらやったって、この側溝が流れ着くところの川や海にもヘドロは溜まっていて、そこが整備されないかぎりこの作業は終わりがない。
海や川はは国や行政の管轄であって、今のところまったく手つかずなんだそうです。

側溝は、最初のうちガスなどを発生してとても臭かったんだそう。

この地域は、家屋倒壊はないようだったけど、床上浸水したところが多かったよう。震災後数日を、自宅以外の場所に避難した人が多いようでした。壁や床はもうすっかりきれいで、聞かないと分からないくらい。新築風のお宅が多くて、庭木はきれいに手入れされていたし、花壇の花も色とりどりに咲いていました。

この日は終日晴天の真夏日だったけど、風もあって、言われていたほどの過酷さは感じませんでした。0時起床・2時出発でやってきたことを思うと、たった4時間、そのうちの半分以上が休憩だったというのは、あまりにも残念な気がするけれど、まあこれが日帰りツアーの限界ということでしょう。

それでも、地域の方はとても歓迎してくれて、お寿司屋さんはたけのこの煮物とトマトサラダを振る舞ってくれたし、荷物を置かせてくれたお宅は冷たいポカリスエットを振る舞ってくれたりいろいろお話をしてくれて、帰り際には深々と頭を下げて「どうぞ末永く、忘れないで、よろしくお願いします」とおっしゃっていました。

このお母さんがとくに語気を強めておっしゃっていたのが「津波の時はてんでん」という言葉でした。津波の時、家族を助けに行った人はどんどん亡くなってしまった。まずはなにも持たず、人を助けに戻ることもせず、自分の身だけで逃げろということだそうです。でもそんなこと、いざとなったらなかなかできないよね。このお宅からほんの3キロも行った地域は壊滅状態で、今も瓦礫の山なんだとか。知り合いもたくさん亡くされて、今もお葬式が次々にあるそうです。

ツアーには、会社の仲間4人で申し込みました。参加費一人3000円、ボランティア保健480円。梅雨に入ってすぐのころ申し込んだのだけど、大人気で予約いっぱいでした。6月上旬に申し込んで、いちばん早く参加できるのが7月17日だったほどです。

わたしは、次は被災地を「見る・聞く」ということをメインにして自由に動ける方法で行こう。東京に住んでいるわたしは、瓦礫やヘドロの撤去もすこしはできるけど、もっと見たり聞いたり話したりして、感じたことを書く方が意味ある気がする。今回は、本当に数時間の作業だけで、もっと話したいこと見たいものがあるのに、ぜんぜん思うように動けなかった。

しかし何よりも今思うのは、わたしは結局あったかくておいしいものをお届けできなくて、つめたくておいしいものをたらふくいただいてしまった。そういう人間、そういう生き方であるのだなあ、小菅由美子は。

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追記:

書き手の震災に対する姿勢として、このブログを作ってる木蘭さん、ちょっとあこがれます。→http://mokurenizumi.seesaa.net/