こういうのも、ライフワークバランスっつーの?


生活スタイルとして、家で仕事できれば、職種はなんでもいいのだ。

やりたいことが「ない」と答えるのは、道を外しているというか、ニートと同じようにダメな人間になるような気がするので、なんかあるみたいに言うし、実際あるような気もする。でも、そこに向かって歩む前に「できないかもしれないし、やってできないよりは『やりたいわけじゃない』ことにしよう」としてしまうということは、つまり実際客観的に見て「やってる」「やってない」で言ったら「やってない」ってことは、どのみち大した「やりたいこと」は持っていないのだろう。

そういうややこしいことはさておいて、もう何年も、いちばん真ん中にある大事なものは「暮らし」です。

暮らしに集中したい。朝起きて、明るい時間に家事して仕事して、夜はまったり気ままに過ごして、就寝する。

今はだいぶそれに近いので、なんとか満足している。ことにしている。けど改善したい点は山盛りある。

こないだ割り切ったのは、「夢を叶える!」じゃなくて、「生計を立てる(暮らす)ために!」というベクトルでがんばろうということ。家でできる仕事で、生計を立てることができて、わたしにできそうなことって何かなと思うと、ぼんやりしている「やりたいこと」とぴったり一致する。好都合じゃないか。

自分なんてこんなもの


なんかもう、なにもかも捨てたい。なげやりたい。

なにもかもバカバカしくなっちゃった。仕事も恋人も友達も髪や服をちゃんとすることもうっちゃって、誰かに愚痴やら身の上やら聞いてもらいながら寂しくなく眠りたい。

もう、なにもかも、バカバカしく、面倒くさく、鼻白む。

でも、モノの減った秩序ある部屋にいるのはうれしい。
この部屋で、秩序ある暮らしらしい暮らしを営みたい。
ただそれだけが、したい。

寂しい。自分なんて、こんなもの、捨ててしまいたい。

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やりたい本の企画書を書きたい。
いやその前に、書きたいものを書きたい。
いやその前に、書きたいものを掘り起こしたい。
絵を描いたり、ピアノを弾いたり歌ったり、そういう気の向くことをやりたい。

ちょっと忙しすぎる。

自己啓発セミナーと売春


「こんなデータ処理仕事、うち帰ってテレビ見ながらやればいいや」って帰ってきたけど、なんでかできない。や、今から2時間くらいやればいいんだけど、明日自己啓発セミナー(会社命令の強制参加)で朝早いし寝なきゃ、と思ってる。

他人に指摘される前に、自分で気付いてるダメをなんとかすべきだし、そうやって生きてきた。他人にとやかく言われたいときは、的確なとやかくを言ってくれそうな人にちゃんと甘えてきた。

大事なのは、必要なときに必要なことに気付こうとすること、そのために動くこと、気付いたら時間をかけてもちゃんと正面から受け取ること。

なんの信頼関係もない人にお金を払って教えてもらおうなんて、浅はかにもほどがある。あまりにもいろいろなことがもったいない。時間も心も脳みそももったいない。わたしという人間がもったいない。

そして、そんな浅はかな人間を食い物にしている自己啓発セミナー会社のその汚さが許せない。その汚さに触れることに我慢がならない。どうせ触れるなら、どこの誰だか分からないスケベなクソジジイの肌や粘膜に触れてお金をもらう売春のほうが、よっぽどマシ。というか、比べものにならない。

わたし、自己啓発セミナーを受けることが、売春するよりイヤなんだ。

売春の汚さは赦せる。いとおしいくらいだ。
正直、わたしは売春に汚さは感じてない。世の中がそう扱うから例に出したけど、売春は汚くない。売春の悪いところと言ったら、売春・買春によって大切な人を苦しめることや裏切ること、自分や他人に対して一時的にうそつくこと、体に無理させることくらいだ。心にうそつくのは、自分を粗末にすることでもあるから。

それに比べて、自己啓発セミナーは汚い。あまりにも汚い。憎しみしか感じられない。

わたしは、汚いと分かっていてあえて手を下す汚い人間が、組織が、大嫌いだ。そういうものがこの世に山盛り存在すること、むしろ存在するあらゆるものの半分が汚いということを知っている。でもほとんどは、しょうがなく、それしか道がなく、汚いのだ。それは美しさの裏返しだ。

でも、人のパニックに乗じてオレオレ詐欺をする人は汚い。きっと自分がなにしてるか分かってないんだろうけど。

経営が火の車の中小企業を食い物に自己啓発セミナーをする商売は汚い。自分がなにしてるか分かってやってる。お金、あるいはお金を中心にしか動けなくなった社会が生んだ悪魔だ。

だますのもだまされるのも、勝手にやっていればいい。でも、わたしには指一本触れるな。わたしにはその穢さが赦せない。

おしごと


最近、いろんなコンテンツのいろんな媒体を作る仕事に関われている。

データ整理も免疫が付いてきてそれなりに楽しめるようになったけど、一番たのしいのはやっぱ文芸書である。雑誌やwebより長く売られ続けるということ、文字が商品の価値のほぼすべてであるということが、おもしろい。子ども向けの本はよけいにそうである。

いろいろやらせてもらえるのは、ほんとおもしろいし、勉強になる。

でも、取材ものが現状ほとんどないのはさびしい。

とはいえ、あれもこれもやりたがりすぎている。これはいけない。作業工程のあれこれを抱え込んでしまう編集者にはなりたくない。

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わたしは今、やわらかい自分で仕事できてる。もっとやわらかくなりたい。そのためにも、忙しくなりすぎちゃいけない。

参)http://okappa.jp/blog/2009/08/31/smooth/

まとも


最近、器用な立ち回りということについて、すこし努力している。今までそゆのあんま好きじゃなかったから。今も好きじゃないけど。でも甘えてらんないよなーと三十路ぞろ目にしてやっと気付いている。

甘えるっつのは、ほっといてもわたしのこと気にしてくれて察してくれる人がいるとか、わたしのことを好いて誘ってくれる人がいるとか、わたしの能力を優も劣も正当に評価してもらえるとか、そういういう思い込み。

しかしそろそろ、察してほしかったらきちんと説明しなきゃいけないし、好きな人を見つけたら誘わなきゃいけないし、できるできないあるいはできるようになりたいかそうでないかは、伝えなきゃいけない。

と思い至り、最近そういう力を身につけようとしている。

わたしは、比較的、世論や常識に流されずに「まとも」に近い価値観を持ち続けられる自信がある。

凡庸だし、矮小だし、知識すくないし、口べただし、コンプレックスも自己愛もあるし、学校の成績も中の上くらいだったし、好奇心も行動力も人並みで、とくに秀でた何かを持っているわけではないけど、そういう、全体的に「ふつう」な人間であることも功を奏して、「まとも」を見分けられると自負している。

だから、もし誰にも理解してもらえないことがあると、寂しいしめんどくさいけど、わりと平気というか、ぶつかると凹むし不安になるし遠回りもするけど、根底では自分を信じていられるし、最終的には自分に帰ってくる。(だれでもそうか?)

なので、べつに分かってもらえないならそれでいいやと、そこで軋轢が生まれるなら距離を置けばいいやと、思うようになっていた。

でも、わたしのほうがまともなら、ちゃんと言おう。

‥‥ただ、まともなことほど聞き入れられないとか、ハナから人をオンナあるいはコドモ扱いして聞く耳持たない方っていうのもたまにいるんだよな‥‥。そゆ人はまだハードル高すぎるな。‥‥とか、部分的に閉ざされるとか。部分的なことならわたしもそうかもしれない。

真実ほど、まっすぐ伝えてはいけない。という場合がすごくよくある。そゆの察してうまく伝わるようにアレンジするのは大事。難しいけど。