もやっとしているぞ!


文章を書くことのおもしろいところは、自分の感じているものこと、体感して体得したっぽいこと、なんかもう分かってることが、感覚じゃなくロジックでだんだん分かってくるからだ。

文章を組み立てるときわたしがやっているのは、感覚の理屈化だ。

でも激しく論文とか苦手だし、理屈っぽい本は眠くなって読めない。
眠くなるというのは、自分の能力を超えた本を読んだりすると眠くなるらしい。

考えてると眠くなるから、もやっとしたままでもとにかくキーボードに向かってたらたらと書けば、だんだん分かってくるのかも知れない。

本の企画書作りつつ。
‥‥わー、かなり危なげ‥‥。見えてなさげ‥‥。

文章書くのは好きなのに、論理的な思考は苦手っていうのは、一体なんなんだろうな。

というか、いつから論理的な思考をこんなに苦手と思うようになったのか。
昔は得意だと思っていたはず。

映画『奇跡の人」


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感情や気持ちを言葉で定義してそれを人に伝えるというのは、その人の自由と尊厳にとって、すごく重要なことなんだと知った。知らなかった。

わたしは最近、また、自分の人生をごっこのように感じている。

11年前もそんなことで悶々としてて、試しに道を踏み外してみたことがある。

試みは大成功で、以来、まあまともな暮らしはしてなかったとしても、生きてる実感は持てた。自分の人生に当事者意識が持てた。

今は持てていない。薄い。

持ててたころは、楽しいことも苦しいことも孤独も焦りも、強すぎて、自分の情緒についていけなくて、大変だった。逃げたくて、やめたくて、死ねたらラクなのに、自分が消えたらいいのにと、デフォルトで思ってた。

今は少しも大変じゃない。少し前までは大変だった感覚をフラッシュバックのように思い出すこともあったけど、今はそれすらない。死にたいって思うなんて、それがどんな気持ちだったか、もう忘れてしまった。

今はラクだけど、そのかわり、言葉を使って人に伝えたいこともない。吐き出したいこともない。

わたしの自由と尊厳が今どこにあるのか、よく分からない。ここにあるから実感できないだけ? まあ、ほどよく、飢えない程度にはある。でも、生かさず殺さずって感じで、「わたしの自由と尊厳はここにあるんだぜ!」というなにものかがない。

書いていながら、何が足りなくて何が足りてると言いたいのか、自分でもよく分からない。

生きてる実感がほしい。当事者意識をもって、いろんなことに当たりたい。

なんで分かってるのにできないんだろう。どうすればできるんだろう。

ああ、ぜんぜん映画のこと書いてない。

「目を開いて!」「心を開いて!」っていうサリバン先生の叫びが、なんだか自分に向けられているような気分になったのです。

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関係ないけど、今日、冷凍パイ生地を使ってアップルパイを作りました。簡単だった。

オーブンレンジのターンプレートが割れちゃってたので、代わりにグリルの鉄板で、クッキングシート敷いて焼きました。

以前ガラスのパイ皿でパイ生地から作った時は、パイ生地の下のほうがグニャグニャになってた。バターのせいか、リンゴの処理のせいか、細かいことは忘れたので検証できないけど。

とにかく今日は成功でした。

言葉はおもちゃ


言葉なんておもちゃなのです。

お金はそれ自体では、スクラッチカードを削る時とMacBookのバッテリーを取り外す時くらいしか使えなくて、モノと交換したり、何かを見たり乗ったりやったりする権利と交換したりするための便宜的なものでしかない。

お金で買える物はだいたい分かりやすい。お金はそれ自体はなんの役にも立たないっていうことだけ分かっていれば、それほど罪深くない。それに、お金は悪人顔をしているので、そんなにだまされない。

それに比べて言葉は、お金と違ってちょっと真実チックなんだよな。善人顔をしている。

でもね、言葉というのは、モノや気持ちやそのほか世界にあるあらゆるものに、便宜的に付けた名前でしかないのです。まったくもって信用ならないあやふやなものなのです。

お金はなにが幾らときちんと数値で決まっている。ところが言葉は、どこからどこまでがなんという言葉なのか、きちんと決まっていない。

「母」、これは自分の産みの親を差したり、銀座の占い師を差したり、大地や海を指すこともある。とらえどころがない。

「愛」、これは母が子どもに抱く感情を差したり、ナウシカと王蟲の間にある絆を差したり、たまにうっかり男の性欲や女のドロドロしたエゴを差すこともある。得体が知れない。

つい弾みで出た言葉が、本当に伝えたかったこととほんのすこしズレていたばっかりに、本当に言いたかったこととはまったく見当違いに伝わってまうということはよくある。

だいたい、慎重に慎重を重ねていいたいことをバッチリ言葉に変換して伝えたぜ!という場合においてさえも、言葉の定義というのは人によって微妙に違うので、バッチリそのまま伝わる可能性は低い。

言葉はただの言葉です。とても信用できるものではないし、扱いのややこしい、いっそないほうがいいかもしれないようなものです。

それなのに、わたしたちのまわりにまつわりつく言葉、言葉、言葉。

だからいっそ、そんな言葉たちがウソでも本当でも、どっちでもいいことにすればいい。ああ、ヘンテコなものが飛び交ってるなと思って、おもしろがってやればいい。おもちゃみたいに使ってやればいい。

そのほうが、核心に近づけるような気がするのです。そのほうが、本当のことを伝えられるような気がするのです。

言葉はおもちゃ。そんくらいがちょうどいい。

誤解とかどーでもいい。


誤解されてもどう読まれてもいいから書きたい。それを公の場でできるのは、小説しかない。ここで垂れ流すのは、どう読まれるかある程度予想して書いたほうがいい。

わたしのうちなるものは、公の場を通さずに、他者のうちなるものと会話できる。それが文学。

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綿矢りさの小説の、一人称の内証的な地の文が好き。ゆらぐ音楽のよう。