ねえかあさん、あなたがいちばん愛しているのはだれですか?


家族ってなんだろう。
なんかちょっとさびしいな。

そういうの金夜に思うことが多いけど、なにが足りないのかよく分からない。

家族ってなんだろう。毎日同じ屋根の下で寝泊まりする人かな。でも、毎日は多すぎる。多分多くの人(家族いる人も)にとってそうなんじゃないのと思うんだけどどうだろう。

最近話した一回りほど上の女性が複数人数、いちばん大事な人は夫と言っていて、親や子どもじゃないことが意外で、なんかうらやましかったな。そういう夫婦関係がじゃなくて、そういう親子関係が。

わたしはやっぱ親子関係に縛られてる感じがする。みんな少なからずそうなんだろうけど、1番と2番ではぜんぜん違う。

いちばんは選べない、家族はみんな大事だけど、子どもはいずれ巣立っていくからちょっと違うんだって。だから選ぶとしたら夫なんだって。

夫は家族だけど、じゃあ夫ってなにかね。というと、「この人を家族としよう」と決意した相手が夫と言うことだよね。でも夫は、一緒に住んでなくても夫だよね。それは家族なの? とか、一緒に住んでなくても気持ちがよりそってれば家族? だとしたらなんで世の家族たちはみんなこんなに一緒に住みたがるのだろうか。

さびしいな、家族とかいいなってふと思う瞬間はあるんだけど、しょせんそれは瞬間で、冷静にいま享受している(貧乏ながらも)気ままで自由な暮らしと寂しさを照らし合わせてみると、さびしさもまた一興だなってことで納得する。

だれかのいちばんでいるというのは、その人にとってその人自身より上ってなことになるのは、その人がたとえ親でも、なんかね。ってそういうこと言うの非人道的なのかな。

以前母に絵本の「おおきな木」を読ませて「どう思う?」って聞いたら、ぜんぜんそんなつもりはなかったんだけど「親の愛だねえ」って言ってて衝撃だった。わたしには、与えて与えて、相手をダメにしても与え続けるダメンズの話にしかみえなかったので。

東京が大好きだと思うときに思い描くのは東京の夜景で、それをぎゅっと抱きしめる。そこにはいろんな人のいろんな人生哲学や営みや人間関係や生き方があって、そのいろいろぶりがちょうど居心地良いのだ。昼はスモッグと建物がうるさすぎて抱けない。

プライドの基軸


もう、親バレOKとしようかな。

なんか窮屈だな。
何を書こうかな。

プライドの基軸がどこにあるのか。
まったく。

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恋は勘違いなのだよな。
恋してるということは、勘違いしてるということとほぼ同義だよ。

だからずっと勘違いし続けられる相手が理想だよ。
だからずっと勘違いさせ続けられる相手が理想だよ。

何年も何年も、死が二人を別つまで。

うそとまやかしこそが幸せだよ。
真実や現実は退屈だよ。
その間に不幸があるかもしれないよ。

愛や幸せや不幸せのことはあんまよく分からないけど、恋のことはよく分かる。気がする。

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プライドの基軸は「かっこいい」に置こう。がんばろ。

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一人暮らしでも、わたしはこのうちの主婦です。

お誕生日の日記がこれじゃあ寂しいな。いろいろあった一日だった。書いてみます。

わたしは、東京が大好きで、この部屋が大好き。毎日一人で暮らしています。一人で起きてテレビ見て、仕事に出かけて帰ってきて、一人分の料理を作ってテレビ見て、一人でセミダブルのベッドに寝る暮らしです。

ベッドの中で、ときどきすごく贅沢な気分になる。ときどきすこし寂しくなるときは、テレビを付けてるときが多いかな。

今夜は、遅い時間にちょっと寂しい気分で仕事から帰ってきたら、郵便受けに贈り物がありました。
漠とした寂しさに泣くほどでもなく携帯を眺めていたら、おめでとうの電話が。
遠くの恋人からのうれしいメールも。

泣くほどでもなかったのに、泣けた。

こんなに自分勝手で、やさしくなく、赤子のような大人子どもを愛してくれる人が、少しいます。どうしてって不思議に思うけど、ありがとうとも思う。そういう人がいるからわたしはなんとかまっとうに、寄り道しつつも楽しく、そこそこ健やかに、生きていられます。ありがとう。

ちょっと前までは、愛してくれる人に「ありがとう」なんて不遜な言葉だと感じてた。こっちが同じ温度で愛していないのに、受け取るだけで、ただニコニコ「ありがとう」なんて。

でも今はすこし変わった。「ありがとう」というだけで、ただ受け取るだけからすこし進んだ関係性になってる。「ありがとう」という気持ちが生まれていれば、それで十分関係性を結べてる。この関係性が時間を重ねると、いつの間にかとても大切な人になっていたりする。

最初は仕事だったと思う。「自分になにが合っているか」「なにがしたいか」を考えすぎてよく分からなくなって、自分を少しでも必要としてくれるほうへ流されてみようとしはじめたのが、2年も前じゃない。つい最近。自分を見いだしてくれるところにいるというのは有意義なことです。

こういう感覚を、最近、プライベートな人間関係でも持つようになってきました。

「ありがとう」の相手が、以前はとても軽いものだった。そんな失礼な関係は長く続けちゃいけないとさえ思った。でも、自分から全力でおもしろがれる出会いや刺激なんてめったにないし、それだけで突き進むと大事なものを失ってしまうことがあって、その恐ろしさは、経験を重ねればいやでも気付く。

愛してくれる人や場所は、自分にとって大事なものだと分かってきた。そうやって、わたしは大人になってしまった。みんなそうやって大人になってしまう。

大人はおもしろい出会いや刺激だけで猛進することができない。

このことが、ずっとジレンマだった。感性が鈍くなったと思った。自分の価値がなんにもなくなったような気にもなった。突き進めることが自分の持ち味だと思っていたのかもしれない。

でも、刺激だけじゃ猛進できない大人の生き方は悪くない。自分では気づけないほど心の奥底の方に、満ち足りた幸せがある。当たり前のようにあるけど、失いうる大切なものだと、今は分かる。

それを分かっているということがいつか、大人の強さ、やさしさになるんだろうな。

34歳にして改めて言うには恥ずかしいことのようだけど、これをもってお誕生日の日記とさせていただきます。

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揺れてていいから、強くあれ。

強いってどういうことかな。

べつに器用になりたいわけじゃない。勝ちたいわけでもない。権力者になりたいわけでも偉くなりたいわけでもない。大物になりたいわけでも、すごい作品を残したいわけでもない。情緒安定させたいわけでもない。風邪を引かない子になりたいわけでもない。

ただありのまま、わたしでありたい。頑なでなく、しなやかでありたい。

その上で、人の力になれたら。

パンがないならお菓子を食べればいいじゃない。或いは、人の罪の在処。


昨夜の私が隠したお菓子がみつからない。

ほとんど食べちゃったみたいだ。パンが売ってなかったから。お菓子しか売ってなかった。リアルに、パンがないからお菓子を食べたよ。豊かな日本であることよ。

こんなときでも強奪とかなくて日本素敵とか言ってられるのは余裕があるうちで、国民性なんかじゃなく豊かさだと思う。火垂るの墓をごらんよ。日本人じゃなくたって強奪なんかしたくないし、日本人だって生きるためならなんでもする。

罪は、人がするんじゃなくて人に巣食った悪魔がやる。悪魔は余裕がなくなった人の心に巣食う。余裕のある人は、余裕のない人を非難して追い詰めるんじゃなく、その余裕を分けてあげて、悪魔を追っ払ってあげて下さい。

悪い人もいい人もいない。国籍なんか関係ない。みんなただ生きてる。それぞれの心身をもってそれぞれの環境の中で生きてる。

あ、あと、余裕がなくて悪魔に憑かれそうって人は、自覚のあるうちに、余裕のある人を見つけて甘えてください。人はちゃんとやさしいよ。