誤解されてもどう読まれてもいいから書きたい。それを公の場でできるのは、小説しかない。ここで垂れ流すのは、どう読まれるかある程度予想して書いたほうがいい。
わたしのうちなるものは、公の場を通さずに、他者のうちなるものと会話できる。それが文学。
2011-8-6 Sat 01:21
誤解されてもどう読まれてもいいから書きたい。それを公の場でできるのは、小説しかない。ここで垂れ流すのは、どう読まれるかある程度予想して書いたほうがいい。
わたしのうちなるものは、公の場を通さずに、他者のうちなるものと会話できる。それが文学。
2011-4-4 Mon 04:40
綿矢りさすごい。大好き。天才。この文章。この確かさと不確かさ。ゆらぎ。リズム。美しさ。素直さ。率直さ。正確さ。確固とした、ありのままそこにあるという、強さ。
以下ネタバレ。
なんでなんでそっちなの。最終的にそっちなの。
朝ドラの『てっぱん』で滝沢くんについていかなかったあかりも分からない。
切実に切望する幻想かもしれない、たぶん幻想であろう人やものと、退屈だけど確かで、自分の足の下にある現実。
わたしはいつも前者に向かって進んでしまう。止められない。未知の理想郷へ向かっていくのはおもしろすぎる。止められない。
確かに足の下にある現実は、すでにある。ここにある。そのありがたさを分かっていても、それを守ることやこれから続けていくことが新しいことで有意義なことと分かっていても、未知には勝てない。
そうやって、わたしは大事な物を失いながら、未知のものを既知にしながら、そしてまた失いながら、生きてきた。
いつまでそうしてるんだろう。でもまだ33だし。
でもでも、今、わたしには、未知への好奇心とは別軸で、きっとずっと大事にしたいものが、自分以外にふたつある。
ひとつはいつでもそばにある。すでにずっとそばにあって、いやになったりどーでもよくなったりしながら、それでもそばにあって、今は大事にしたい、育てたいと思ってる。や、ずっと思ってたけど素直になるとしんどいから斜に構えてたけど、今は素直に思ってる。
もうひとつは、もしそばにあってくれたら、大事にしたいと思うもの。でもわたしにはどうしようもない。そばにあるのかないのか、分からない。今は未知への好奇心でいっぱいで、本当にずっと大事にしたいのかよく分からないけど、この直感は外していないような気がする。ただ、これから先そあばにあってくれるのかどうか分からない。うまくいっても、きっとずっと、分からないまますこし不安を孕んだままのものだろうと思う。それも込みで、大事にしたいと思ってる。
でもふたつめのほうは、それが既知になったとき、新たな未知が現れたときに両立できなくなったら、やっぱり手放してしまうんだろうか。それを守ることや続けていくことが新しいことで有意義なことと分かっていても、未知には勝てないのだろうか。
「でも多分、好きになってしまった時点で、口ではどんなふうに言っても、もう99パーセントくらいは受け容れてしまってるんだろうな、多分」
そうなの。だから困るの。
でも、やっぱり自分の直感は外れていない気がする。
久しぶりの読了。単行本新刊を買ったのも相当久しぶりだったけど。おもしろかった。綿矢りさはすごい。
2010-3-30 Tue 01:02
小説家カポーティが、凶悪事件の犯人に深くシンパシーを感じ、惹かれていき、歪な友情を深めていくはなし。
この事件を新聞で知ったのをきっかけにノンフィクションノベルという新しいジャンルに着手。取材中から手応えを感じていて、書けばさらに具体的に成功が見えてきた。前評判も上々。あとは犯人から事件当日のことを聞き出し、死刑を見届ければ作品は完成する。作家として、この事件にのめり込み、夢中で執筆するカポーティ。
一方、犯人は死刑が決定しながらも、予想に反し執行は延期を繰り返す。作家としてだけでなく、友人としてものめりこんでしまったカポーティにとっては、一人の大切な友人を失うことに怯える日々が続く。精神的に弱っていくカポーティ。
作家として事件を利用する自分と、最良の理解者として支える自分。苦しみながら、この二人の自分を往き来する毎日。
全部体言止めで終わるわたしの文章。
この映画、試写室で寝ちゃって見れなくて(でも面白いのは分かったから作品は紹介した)、DVDがレンタルリリースされたとき借りたけどやっぱり寝ちゃって、それでやっと今夜見た。最近忙しくて、もうこの2時間しか見るときないなと思って見たら、そこそこ集中できた。
おもしろかった。
成功者も落伍者も、愛に飢えている。安直な言い方だけど、いつもそう感じる。
この映画には原作がない。この事件を通してカポーティが書いた『冷血』があるだけ。この映画は静かで地味で暗くて、文学みたいだ。だから寝ちゃうんだけど。
これを機に書けなくなったカポーティはまだ冷血じゃなかったということで、犯人も、そういうカポーティに心開いたということは、まだ冷血じゃなかったということだ。
本当に、人が人を裁くなんて、いやなことだ。
2009-10-23 Fri 02:07
図書館で借りて読んでる。おもしろくなってきたら表紙にべったりビニールが貼ってある本のまま読み終えるのがもったいなくなってきて、新品をワンクリック購入してしまった。アマゾンでも高い本は中古で買うことが多いので(図書館や中古の、人が読んだ気配を含んだ本で物語を読むのは好き)、ハードカバーの新品購入は久しぶり。
虚無がファンタージェンを浸食している。まるでわたしの精神世界現状みたいだ。アトレイユが絶望の中、個ではなくて大きな世界のうねりの一部として、歩みを進めている。まるでわたしの欠落部分の揶揄みたいだ。
エンデは連作短編集『鏡のなかの鏡』の中のいくつかと、『モモ』を読んだけど、そんなにハマらなかったんだよね。だから『はてしない物語』も映画止まりだったんだよね。映画の前に本読んでたらよかったなーってこんなに思ったことはない。
ファンタジーの中で『ホビットの冒険』がいちばん好きだったけど、変わるかもしれない。『はてしない物語』は今読むのにタイミングがぴったりだ。足下がおぼつかない日々の中で、なんとかわたしと地面のフックのような役割をしてくれてるように思う。
しかし、買ってから新装版が出て悔しかった本の筆頭が『罪と罰』文庫、『モモ』、『ホビットの冒険』。
『ホビットの冒険』オリジナル版は、たぶん原著に忠実にという意味で本文が横組みなんだよね。だったらいっそ原文の英語でのオリジナルデザインのものが欲しい。けどそれはない。ので購入に至らず。いろんな装丁で出てるけど、トールキンの絵はどの画家のよりも好き。
『モモ』は作品自体にそれほど思い入れがないので購入に至らず。
『罪と罰』は最初に読んだのがボロボロになってしまったし再購入しようかなとも思うんだけど、最初に読んだ本には線が引いてあったり付箋がくっついてたりして、それなりに愛着がある。それはそれとして、再読用に新装版も買っちゃおうかな。文庫は圧倒的に新潮が好きだ。
文庫はカバーを捨てて保存する人もいる。たしかにこざっぱりして本棚に並べたときすっきりするしいいんだけど、装丁がないのはやっぱ寂しい。そんなにカバーが大事なら本屋で紙カバーつけてもらえば、とも思うんだけど、本を開くときに装丁が目に入って、それから読むのが読書の楽しみの大きな要素でもある。透明ビニールカバーなども試したけど、しっくりこない。本は紙か布が良い。
ただ、同じ絵柄の表紙がついてる絵本なんかは、カバーいらないかなと思う。カバーをつけておくのは日焼け対策程度。カバーが焼けたりボロくなったら外してしまう。
装丁ばなしついでに。最近帯込みでデザインが成立している装丁があるけど、あれは悲しい。帯は読むときじゃまだし広告なので外したい。でも外すとデザインが崩れる。苦肉の策として、帯は外して捨てないで栞代わりにするんだけど、栞にすると結局なくしてしまうんだよね。
書店陳列時に目立つことを重視した装丁が最近多くて、感心するんだけど、やっぱり本の持つ世界への玄関としてあってくれるのが好き。ジャケ買いすると鈴木誠一デザインのものが多い、というのは、そのへんに理由があるように思う。
これだけ装丁について考えさせる『果てしない物語』はすごいな。しかも中身もすごいぜー。セバスチアンの本へのこだわりについて、ほんとうにおもしろい物語ってこんな物語だ、と描写しているくだりがあるのだけど、ほんと、正々堂々とあんなことを書いてしまえるエンデはすごい。あそこで「あートールキンより好きかも」と思った。
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あった‥‥。
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追記 -10/30深夜-
『はてしない物語』は、児童文学、ファンタジー、冒険、というかたちで書かれた哲学書。子どもにすんなり伝わる平易な冒険物語を追いながら、知らないうちにすごく大きな心理がすーっと体に浸透していく。ごく自然に、ゆるやかに、やわらかく、しなやかに。
そういう表現の仕方が、わたしにはちょうどいい。読み手としても書き手としても。