ブログにタイトル書く必要なんてあるんだろうか。


この週末は自分の文章書いてみようと思って、いるうちに、月曜の朝5時を回りました。

なにも書いていません。

ブログのコードをすこしいじった。

ブログはなにも生まないなーまじで。

Facebookはユーザー以外には見れないものなのかな。
近況報告みたいなことならFacebookでいいんだけど、アカウント持ってない人にはどうも見れてないっぽいのが残念。

内証的なことは、ここに書かない方がいいような気がする。
ここがなければ、ここ以外のどこかに場所を持つだろうから。

ここを読んでくれる人は、きっとわたしの内証的な文章をおもしろいと思ってくれる人なんだろうし、わたしも内証的なことをうだうだ、だれかが読んでくれるんだろうなと思って書くのがたのしいんだけど。

ちゃんと向き合え、オレよ。オレと。

と、ひとまずブログのせいにして、いいかげん寝なきゃ。
勤め人て窮屈。(でも健全!)

ねえかあさん、あなたがいちばん愛しているのはだれですか?


家族ってなんだろう。
なんかちょっとさびしいな。

そういうの金夜に思うことが多いけど、なにが足りないのかよく分からない。

家族ってなんだろう。毎日同じ屋根の下で寝泊まりする人かな。でも、毎日は多すぎる。多分多くの人(家族いる人も)にとってそうなんじゃないのと思うんだけどどうだろう。

最近話した一回りほど上の女性が複数人数、いちばん大事な人は夫と言っていて、親や子どもじゃないことが意外で、なんかうらやましかったな。そういう夫婦関係がじゃなくて、そういう親子関係が。

わたしはやっぱ親子関係に縛られてる感じがする。みんな少なからずそうなんだろうけど、1番と2番ではぜんぜん違う。

いちばんは選べない、家族はみんな大事だけど、子どもはいずれ巣立っていくからちょっと違うんだって。だから選ぶとしたら夫なんだって。

夫は家族だけど、じゃあ夫ってなにかね。というと、「この人を家族としよう」と決意した相手が夫と言うことだよね。でも夫は、一緒に住んでなくても夫だよね。それは家族なの? とか、一緒に住んでなくても気持ちがよりそってれば家族? だとしたらなんで世の家族たちはみんなこんなに一緒に住みたがるのだろうか。

さびしいな、家族とかいいなってふと思う瞬間はあるんだけど、しょせんそれは瞬間で、冷静にいま享受している(貧乏ながらも)気ままで自由な暮らしと寂しさを照らし合わせてみると、さびしさもまた一興だなってことで納得する。

だれかのいちばんでいるというのは、その人にとってその人自身より上ってなことになるのは、その人がたとえ親でも、なんかね。ってそういうこと言うの非人道的なのかな。

以前母に絵本の「おおきな木」を読ませて「どう思う?」って聞いたら、ぜんぜんそんなつもりはなかったんだけど「親の愛だねえ」って言ってて衝撃だった。わたしには、与えて与えて、相手をダメにしても与え続けるダメンズの話にしかみえなかったので。

東京が大好きだと思うときに思い描くのは東京の夜景で、それをぎゅっと抱きしめる。そこにはいろんな人のいろんな人生哲学や営みや人間関係や生き方があって、そのいろいろぶりがちょうど居心地良いのだ。昼はスモッグと建物がうるさすぎて抱けない。

こそこそ


こそこそなんて、したくない。

なんでこそこそするのかというと、それを、わたしの大切な人が心から不快に思うだろうと思うからで、それ以外の理由でこそこそするのは、貧乏なときにせこいことするとき。

……いっぱいこそこそしてるんだな。

誰かが不快になるからといって、自分の行動を規制するのはいやで、それこそ、どんなに小さくてもあるいはとてつもなく大きくても、ケチることなく、ひるむことなく、自分の欲に対して正々堂々と邁進していきたい。そういう人間でありたい。

もともとの人間が矮小だから、心がけてそうしていないと、ただやみくもに身の回りの人たちの顔色だけを道しるべに、何も考えず、木偶のように、ただ歳を取ってしまう。人生を人のせいにしながら。あらゆることにグチを漏らしながら。

こそこその、何が悪いんだよ。

プライドの基軸


もう、親バレOKとしようかな。

なんか窮屈だな。
何を書こうかな。

プライドの基軸がどこにあるのか。
まったく。

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恋は勘違いなのだよな。
恋してるということは、勘違いしてるということとほぼ同義だよ。

だからずっと勘違いし続けられる相手が理想だよ。
だからずっと勘違いさせ続けられる相手が理想だよ。

何年も何年も、死が二人を別つまで。

うそとまやかしこそが幸せだよ。
真実や現実は退屈だよ。
その間に不幸があるかもしれないよ。

愛や幸せや不幸せのことはあんまよく分からないけど、恋のことはよく分かる。気がする。

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プライドの基軸は「かっこいい」に置こう。がんばろ。

5cmのゆとり


Proseのエントリを増やすために、過去に書いたものを読み返している。

今日エントリしたやつは、3年前半に書いたもの。

自分の中の汚泥を掻き出している時期だと当時から分かっていたけど、本当に、今の私からはあんな文章は生まれない。今は我ながら眠くなるほど、神経はおだやかで、好むものも近寄ってくるものも平和的なものばかり。

長い時間だった。悪夢ばかり見ていたし、苦しくてよく泣いていた。死にたいとは思わなかったけど。この頃は、もう死にたいとは思わないだろうなって自信もあった。

死について考えたのは、この時期のもっと前。10年近く前。やっと自覚的に人生を歩き始めたものの、逃げ出したくてしょうがなかったんだろうな。でも、ヒリヒリするほどの「生きている実感」はおもしろかった。夢中だった。や、無我夢中だった。人生に追いかけられて、焦って、焦りに呑まれていた。

今は、生ぬるいお湯につかっているみたい。自分の足で生きている実感はある。けど焦ってはいないし、苦しくもない。まるでなにも感じていないみたい。幸せを感じるゆとりがいつも皮膚から5cmくらいをとりまいていて、ゆるゆると単調な日々を過ごしている。

この、5cmくらいを取り巻いているゆとりがじゃま。飽きてきた。

遠くへ行きたい。この5cmのゆとりを脱いで、いつでもまた着れるところにしまっておいて、ヒリヒリする冒険にちょっと出てきたい。

ずるいみたいだが、しかし、5cmのゆとりを捨てるというのは、ちょっと今すべき選択じゃない気がする。