こびとさんとのお付き合い


小学生の頃、わたしは毎日図書室に通っていた気がする。大きな字の200ページくらいの単行本を、毎日1冊くらいのペースで読んでいたということだと思う。返却期限が1週間で、期限を気にした覚えはないけど、まあどんなに時間をかけても1週間あれば200ページ読めたんだと思う。

32歳の今、読書に費やす時間は寝る前で、読む量はせいぜい10ページ。一気に200ページくらい読む日も年に数回くらいならあるかもしれないけど、ほとんどは、本をひらいて1ページも捲れば安心して寝てしまう。読書量に安心するわけじゃなくて、実生活から魂をはがして、宙ぶらりんになって、安心というよりはリラックスする。眠りという、魂の別空間に入っていく準備ができる。

つまり、今のわたしにとって読書は入眠儀式であって、主体的に読書を楽しめることはすごく少ない。あっても再読であることが多くて、新しく出会う本で前のめりに読めることは滅多にない。そんな本に出会えたら、魂はしばらく密かにお祭り騒ぎだ。

これでも、わたしにとって読書はかなり大事な事柄であって、本に関わる仕事をしているし、文章を書く仕事もする。いち社会人としてのわたしの根は、読書好き、という地に張っているはずだ。

今、『小さいときから考えてきたこと』という黒柳徹子のエッセイ集を読んでいて、LDとかADHDのことに触れている章を読んだ。あと、こないだ「こびとさんをたいせつに」というブログ記事を読んだ。

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徹子はつくづく、こびとさんを大切にしてる人だ。ものすごいこびとさんがいる人で、しかもそれがこびとさんだとよく自覚している。

前の記事でわたしが書いた「天才」というのは、「ものすごいこびとさんがいる人」だと思う。あまりにもものすごいこびとさんがいる人は、とてもこびとさんをほっとくわけにはいかなくて、自分の人生や命をこびとさんのために費やさなければいけない。でもそんなの大変なので、こびとさんには費やさない、費やしたくない、と、天才は思う。苦悩する。悩みが他の人には分かってもらえなくて、孤独にも悩まされる。でも天才のこびとさんは、もはやその人だけのこびとさんではなく、社会というか世界というか、よくわからない、もっと大きなもののこびとさんなので、天才はうまく諦めなければいけない。折り合いをつけなければいけない。天才にとっていちばん難しいのはここだと、わたしは天才じゃないけどなんとなくそう思う。これがうまくできなければ、こんどはこびとさんではなくて自責の念に苦しめられることになるだろう。こびとさん飼い殺しの刑が下されるのだ。

こびとさん飼い殺しの刑を、わたしは身近に1度だけ見たことがある。と思う。一方徹子は、実のところはしらないけれども、わりとすんなり、そんな自覚もなく、折り合いをつけているすごい人だと思う。折り合いをつけるというより、こびとさんに対して素直、誠実、実直。無垢。

どこに落としたらいいのかよく分からないが、ええと。

わたしのこびとさんはどのへんなのかなあと。そういうことを考えたんだった。人には得意と不得意があって、不得意をフォローするのは、人に迷惑をかけない程度にとどめればそんなにがんばらなくていいと思う。得意なところ、楽しいことをどんどんやっていくほうが、いいと思う。わたしのためにもこびとさんのためにも。わたしの不得意なところは得意な人に助けてもらって、わたしはわたしの得意なところでお返しをする。

ずいぶん前からそう心がけているつもりなんだけど、向かう先が曖昧模糊としていて、焦りのような、虚しさのようなものを感じてしまう。

そんな夜もあるさー。

曖昧模糊としてなきゃ、探る楽しみがなくなるからいいんだけど。向かう先が明瞭だなんて人は、天才のなかでもそんなにいないだろうし。

ぼんやりある。ぼんやりあれば充分なのだ。とりあえず1歩の向きがだいたいなんとなく分かればそれで。

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