まえがき:1月30日の日記を2月7日に書きます。
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絶賛悶絶悶々中のところにもってきて、会社の契約更新と謎の企画書20本ノルマというわけのわからんストレスがミルフィーユのようにまったりこってりべっとり重なって、とても息ができないのでのり子に来てもらった。
そしたらとりあえず、ダイヤモンド富士なるものが拝めた。

ヒャッホー。
富士山と夕日(地域によっては朝日)がこうやって重なって見えるのを、ダイヤモンド富士というらしい。各所、年に2回。

絶賛悶絶悶々中に見る、美しいものをみるために集まった地元の人々、その感嘆の声、交わし合う喜びの表情、というのは、感極まるものがあった。
前にも一度、のり子と来たことがあるこの富士見坂は、わたしの認識が正しければ上野台地の西の際。本郷側から谷を登ってやっと高台に出たところにある。
東の空を見上げると、巨大なマンションビルがにょきっと伸びて、招かれざる新参者の精いっぱいの虚栄とばかりに西日をさんさんと浴びている。一方こちらの足元は、綱渡りみたいに頼りなく這い伸びる細道で、なんとか車1台の幅はあるけどもちろん一方通行。ぐるりを広大な寺々に囲まれていて、いかにも寂しい。
下町の無闇な都会化を妙に虚しく感じさせる、こんなへんぴなところに、みんな集まってきたのだ。あんなちっちゃな、新宿ビル怪獣に食べかけられた富士山を見るために。
実家が富士山の近くにある人は、わざわざ東京から富士山を見たいとは思わないみたい。その点、のり子は静岡の人なのに、東京のあんななさけない富士山に感動できてすごいと思う。感動できるどころか、ダイヤモンド富士ってものを調べ当てて、めんどくせーよー富士山なんてどーせみえねーよーと悶絶悶々ふてくされているわたしを連れ出すことまでしてる。
富士山はすごく美しい形をしていると、最近わたしはつくづく思う。
西洋人は山を愛でるために眺めるということをしない、と聞いたことがある。脳の違いを説明するテレビ番組かなんかで言ってた。でも、それはもしかして脳とか感性の違いじゃなくて、山の形の違いかも。
だってやつらの国には富士山ないんだぜ。わたしだって木曽山脈とか中央アルプスとかだったら眺めないもんな。富士山だから眺める。
そんで、富士山のすごいのは、東京から見えることだと思う。
江戸時代から大都市で、自然や大地との調和みたいなことより、人と人、時間と仕事、みたいなことが最優先の大忙しの生活が繰り広げられてきたこの東京から、富士山は見えるのだ。未だに。
人々は、富士山を見るときだけは、自分たちの生活をちょっと俯瞰できたんじゃないかと思う。今日は赤いな、とか、今日は青いな、とか、お、冠雪したぞ!とか、そんなふうに富士山を見やる一瞬は。
埼玉の多摩湖のダムから見た夕日の富士山も、すごくすごく美しかった。あれは、関東から見る初めての富士山だった。
でも、もっとずっと小さい、光化学スモッグまみれの富士山は、なんだか心に響く。寺の脇道に集まった、たくさんの人々の心に等しく響く。
